いきなり、だ。
いきなりそんなことを言い出すものだから、頭が真っ白になった。
あいしてる
伏せていた顔を上げて、それが至極神妙な声を出した。
「ふぇえ…?」
あまりに予想外すぎて、少年はぽかん、と口を開けたまま、気の抜けだうめきを漏らすので精一杯だった。
何だいきなりどういうことだトチ狂ったのか、
と疑問符が入り乱れる中、金色の生き物が次に続けた言葉に、トチ狂っていたのは、淡い期待を抱いた自分の方だと痛感する。
「うしお、あいしてるって、なんだ」
「ん゛ん?」
少年の強い意思をそのまま表したような太い眉が、ぎゅっと真ん中に引き締められる。
金色の妖怪は、呆けた顔をしたかと思うと、途端に険しく眉をしかめた少年に、何か奇妙なものを見る目を向けてきた。
「ここに書いてある。言葉は理解できるが、さっぱり意味が解らねぇ」
言いながら、妖怪が持つにはいささか小さすぎる文庫本を示す。
妖怪の大きな手やゴツイ指先が薄い紙を、小さな文字をたどる様は、滑稽で、なんとなく可愛らしい。
などと思ったなど、口が裂けても言えない。
少年はそんな思考を読み取られまいと、極めて平静を装って妖怪の手元を覗き込んだ。
普段小説の類をほとんど読まない少年だが、妖怪の持っているものには見覚えがあった。
確か、実話を元にしたエッセイ風の恋愛小説で、映画化もされたほど有名な作品だ。
同年代の女子はこぞってその、儚く美しい悲恋に酔いしれ、恋や愛を物知り顔で語り合っていたが、少年は正直この手の話は好きでなかった。
以前金曜の夜に、地上波で流されていた映画をなんとなく観たことがあるが、結局心には響かなかった。
どんなに美しかろうが、強い愛に満ち溢れていようが、悲しいものは、単純に悲しい。
「なんでこんなもん、とらが・・・」
少年があからさまに似合わない妖怪と小説を見比べれば、妖怪は少し首を傾げるようにして、マユコがよ、と呟いた。
真由子、と頭の中で繰り返し、クラスメートの可愛い本の虫を思い浮かべる。
彼女が読めと言ったのか。
色々と行動に不思議な点の目立つ彼女なら、まぁありえなくはない。
が、
「お前、井上の言うことには素直だよなァ」
「うるせぇ、それより質問に答えろ」
少年が呆れたような声を出すと、妖怪があからさまに顔をしかめる。
それが、妖怪なりのいわゆる照れ隠しのようなものだと、少年は知っている。
だから少し面白くない。
「しらねーよ、そんなモン。中ボーが知るかよ」
ぷいと顔をそらして立ち上がる。
去り際に、それ読みゃわかんだろ、と吐き捨てれば、妖怪はますます表情を険悪なものにした。
「解からん、三回読んだがさっぱり解からん」
「何だお前、律儀だな!?」
予想だにしなかった妖怪の言葉に、思わず振り返ってしまう。
再び目が合ってしまうと、少年は観念したようにまた、その大きな体の前に座りなおした。
それから、向かいに座った妖怪の、高い位置にある目を睨み上げる。
「そんなモン、俺に聞くのが間違いだろーが」
ボソリと呟けば、妖怪は不思議そうに見下ろしてくる。
どうやら顔が赤いらしい、という自覚があるが、その理由も解からなかったので、とりあえず少年は不機嫌な表情を作った。
妖怪はしばらくぺらぺらと文庫本をめくっていたかと思うと、いきなり興味をなくしたように、それを畳の上に投げ捨てた。
人のモン粗末にすんなよ、ととっさに怒鳴って本を拾い上げる。
表紙が若干折れてしまったが、あの友人はそんなことは気にしないだろう。
それでも、とがめるような目を向ければ、妖怪は特に何の表情も浮かべず、ごろんとその場に横になった。
気の短い妖怪らしくもない、寛容な(あくまで普段の妖怪と比べてだが)態度に、拍子抜けする。
妖怪は何かを考えているように、とがった耳をゆっくり上下に揺らしている。
妖怪の小さなクセだが、多分妖怪自身も、自分以外の人間も知らない。
「しかし、今時の『ショーセツ』ってーのは読みづれぇな」
畳に頬杖をついて、妖怪がこちらに視線を向けた。
表現が稚拙だの何だのとケチをつけ、人間は知能が落ちたんじゃねーか、とまで吐き捨てる。
少年は少し、妖怪が例の言葉にこだわる理由が解かった気がした。
妖怪は、呆れるほど負けず嫌いだ。
人間が書いた文字を、その表現するところを、理解できない。
それはプライドの高いこの妖怪にとって、簡単に許せることではないのだろう。
「俺だって理解できねーよ」
悲しいだけの美しさ、など。
ぼんやり手元の文庫本に視線を投げた。
妖怪がじっとこちらを見ているのを、視界の端で捕らえる。
それだけで奇妙な緊張が喉を締め上げて、心臓が耳の奥でけたたましい警戒音を上げる。
振り払うように睨み付ければ、妖怪は無表情のまま、誰に聞かせるでもないような、静かな声を出した。
「わしが思うに、」
愛情というものは、その対象が絶えたときによりいっそう強く感じるものだ、と妖怪は分析したと言う。
耳から入る情報が、上手く脳に伝わらない。
自分の理解力の乏しさを呪いながら、少年が説明を求めるように首を傾げると、妖怪はようやく表情らしきものをその大きな口に浮かべて見せた。
口の端を吊り上げて、意地悪そうに笑う。
事実、この妖怪は相当意地が悪いので、少年はどんな悪態が来るかと身構える。
しかし、妖怪は思いもよらない科白を吐いた。
「ためしにお前を殺せば、・・・あるいは理解できるかも知れネェ」
一瞬、訳が解からなかった。
それからしばらく考えて、あらぬ期待に心臓が悲鳴を上げた。
一気に顔が熱くなる。
何を期待したのか、きっとこの妖怪はすぐに理解するだろう。
そういうときの勘だけはいい。
多分、妖怪の真意は、少年の期待のアサッテにあるのだろうが、もう遅い。
単純な脳細胞が、忌々しい。
目が回るような感覚の中、少年は無理やり口の端を引きつらせて、妖怪のように意地悪い顔を作ろうとした。
鏡を見なくとも、失敗している自覚がある。
それでも妖怪ほどでないにしろ、負けを認めるのが本当に嫌いな少年は、かすれた声を出す。
「・・・やめとけ。俺が死んだあと理解したって、意味ねーだろ」
死んじまった奴には二度と、言えなくなるんだぞ、 と消え入るような声をやっとの思いで吐き出しきれば、妖怪はしばらくこちらをまじまじと眺め、それからまた意地悪な顔で笑った。
「は、ガキが。生意気言いやがる」
それっきり畳に頭を投げ出して、話は終いだとばかりに妖怪が目を閉じる。
ぱらぱらと無意味にページをめくりながら、少年は鳴り止まない心音を耳に感じ、ゆっくりと息をついた。
この、気持ちの正体は、きっと愛や恋と言った生易しいものではないのだろう。
いや、もしかしたら、こちら側はそうかもしれない、百歩、いや千歩譲って。
けれど、違う。
決定的に違う。
だって目の前の美しいこれは、人ですらないのだから。
悲恋は嫌いだ。
ため息をついて、畳の上にそっと本を置く。
立ち上げると、妖怪の耳が気配を探るようにぴくりと動いた。
あのクセを、知っているという優越感を、この空気を、あとどれだけ味わい続けられるか、解からない。
だからこんな悲しい話は、嫌いなんだ。
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