それが不道徳だということは、
知っています。
透明な糸を引いて、唇が離れていく。
無意識に手が伸びて、金色の毛をつかんだ。
もう一度、と声に出さず請う。
目の前の大きな口は、鋭い牙をむき出して低く笑った。
「どうした、今日はやけに素直じゃねーか」
耳元で囁かれ、ゾッと背筋が粟立った。
腕を回して大きな頭を抱え込めば、それは酷く穏やかに、名前を呼んだ。
「うしお、」
墨色の空に、満月が浮かんでいる。
君のこと、
冬の冷えた空気の中で、深く息を吸い込んだ。
肺が一瞬、きりきりと痛む。
「あー、ずげー晴れたな」
雲ひとつ無い乾いた青空を見上げ、誰ともなしに呟けば、軽やかな声を上げて名も知らぬ鳥が舞い上がる。
伸びやかなその羽に、意識がひきつけられる。
風を切る翼。
そんなものは無いのに、アレはあんな大きな身体で、実に軽やかに宙を泳いでみせる。
「おい、うしお」
背後から声がかかり、少年は振り向いた。
縁側に我が物顔で寝転んでいる大きな生き物が、頬杖を付いてこちらを見ていた。
「・・・何だよ」
ぷいっと顔をそらして、短く返した。
金色の生き物は一瞬面白くなさそうに顔をしかめたが、それについて何か文句を言う様子も無い。
「お前、桃、好きか?」
「はぁ?」
予想外の言葉に、思わず振り返る。
目が合うと、金色の妖怪はにやりと笑った。
「ちったぁ隠せ」
そう言って、とん、と自分の喉元を指差した。
少年はその仕草に、ハッとしてシャツを手繰り寄せる。
一気に体温が上がって、自分が赤面していることが解かった。
所有痕、とでも言うのだろうか。
はっきりした言い方は知らないが。
ヤツは毎回こうして自分に傷をつけて、嬉しそうに笑うのだ。
「うるせぇよ、バカ。隠せってんなら、隠れるところにしろよな」
言いながらゴシゴシと首をこすってみるが、深く食い込んだ歯型が、それしきのことで消えるはずも無い。
機嫌悪く舌打ちすると、少年は再び作業を再開する。
かごいっぱいに詰め込まれた洗濯物は、冬の空気にすっかり冷たくなってしまっていた。
水を含んで重みを増した布を拾い上げ、水を払うように二三度振ると、パンパンと空気を叩くような音がした。
今日は天気もいいし、空気も程よく乾燥している。
半日も干しておけば、すぐに乾くだろう。
「うしお、」
「だから、うるせーって」
今度は振り向きもせず、妖怪の言葉をさえぎった。
妖怪が不機嫌そうに、ため息をついたのが解かった。
別に、どうということも無い。
アレと何か小競り合いをしたわけでもない。
しかし、この不快感は何だろう。
「・・・あ」
思わず、声が出た。
高く澄んだ青い空に、ふわりと舞った金糸。
輝く妖怪の姿が、あまりにも美しく見えた。
妖怪は金色の身体をくるりと反転させて、こちらを振り返った。
鋭い目が自分を見ている。
それだけで、空気が薄くなったような、息苦しさを覚えた。
妖怪は声も立てずにゆるく笑うと、そのまま飛び去っていってしまった。
冷えた指先が、いつの間にか冷え切ったシーツをきつく握っていて、痛いと思った。
冬の一日は、短い。
すっかり日の落ちた空は、しんと静まり返り、いっそう冷たさを増していた。
風呂を済ませて居間に向かう途中、ふわりと鼻腔をくすぐった甘い香りに、少年は不思議そうに首をかしげた。
自分の鼻が正しければ、この香りは紛れも無く、あの果物の香り、だ。
「よぉ、帰ったぜ」
居間の障子を開けると、いつものようにテレビの前に寝そべって、妖怪が声をかけてきた。
いちいちそんな報告をするところを見ると、どうやら機嫌がいいらしい。
居間に置かれたちゃぶ台に目を向けると、予想していた通りのものが、そこに積まれていた。
「・・・桃、って冬のフルーツだったか?」
「あん?ふるー・・・?何だって?」
「・・・あぁ、『果物』だったか?」
少年の言葉に怪訝そうな顔をする妖怪は、どうも現代語に疎い。
仕方なく言い直し、ちゃぶ台の上に置かれたそれを、一つ手に取ってみた。
甘い香りと、指に吸い付くようなような皮の感触は、紛れも無く少年の知っている通りの「桃」だ。
「妖怪の多く棲む場所には、ニンゲンの世界とは違うモンが出来るんだよ」
少年の疑問に大雑把な回答を寄越して、妖怪が近づいてくる。
さらりと畳をすべる金色の毛が、電灯の明かりを鈍く反射した。
「お前、好きだろ?」
ニヤニヤと笑いながら、妖怪が首を傾げて見せた。
少年は少し眉を寄せて、妖怪らしからぬ行動に、明らかな疑惑の視線を向ける。
妖怪の意図が読めない。
まさか自分を喜ばせるために、わざわざコレを採りに行ったとでも言うのか。
そこまで考えて、無意識に少年はため息をついていた。
有り得ないと知りながら、馬鹿な期待をする、自分が気に食わない。
目の前でニヤニヤ笑うこいつも、気に食わない。
「・・・何だよ、どーいうつもりだよ」
低い声で問えば、妖怪はつまらなそうに肩をすくめて離れていった。
そしてそのままごろんと横になる。
回答も与えられないまま放り出された状態で、少年はどうすることも出来ず立ち尽くす。
掌にある小さな重みと、甘い果実の香りが、嫌に鼻を付いた。
「喰ってみろよ」
つまらなそうにテレビに視線を向けながら、妖怪が言った。
「・・・どうせ、ただの桃じゃねーんだろ」
じっと手の中の果実を見下ろしながら、少年が問う。
妖怪は、笑った。
「それ喰うとなァ、歳、食わなくなんだとよ」
「え・・・?」
「老いないニンゲンは妖怪と一緒、だよなぁ?」
ゆっくりと発音する低い声。
いつの間にか妖怪の顔がこちらを向いていて、大きな口が三日月のようにしなっている。
そこから覗く鋭い牙が、妖怪の鋭い目が、何かを期待したように、ギラギラと光って見えた。
「・・・そんな、モン・・・」
思わず身を引いて、机に桃を戻そうとしたとき、妖怪の大きな手が、果実ごと少年の手を掴んだ。
怯えたように身を縮めた少年に、見せ付けるように、妖怪が桃に歯を立てる。
薄い皮が裂けて、まるで透明な血液のような甘い蜜が、腕を伝い落ちていった。
「・・・と、ら・・・」
声が思ったように出なかった。
妖怪の長い舌が指の間に滑り込み、流れ出た蜜をすくう。
びくっと反応してしまう身体に、思わず舌打ちが出た。
その様子に、満足そうに妖怪は笑った。
羞恥に顔が歪み、拳を固めたと同時、妖怪の手が乱暴に少年の頭を引き寄せた。
「・・・・!」
短い髪を引っ張り、強引に口付ける。
這いずり込んできた妖怪の舌が、慣れたように口内を侵してゆく。
途端に溢れる、甘い香り。
ガンッ
とっさに少年は、妖怪を振り払った。
いつも携えていた槍が、妖怪の巨体を弾き飛ばす。
反動でしりもちをついた少年は、激しく咽ながら、必死に口をぬぐっていた。
槍で殴りつけられ、畳に叩きつけられた妖怪は、しばらく寝転んだまま動かなかった。
慌てて桃を吐き出そうと咳き込む少年の様子に、じっと耳をそばだてているようだった。
やがて、ゆっくりと妖怪が顔を上げる。
生理的な涙にかすんだ視界の向こう、こちらを向いた妖怪の頬には大きな傷が走り、人によく似た色の血が溢れていた。
妖怪は、笑う。
地の底からわきあがってくるような、低い濁った笑い声だった。
「やっぱりてめぇは、・・・ニンゲン、だなぁ・・・」
妖怪の静かな言葉に、何故か、胸が軋んだ。
それが不道徳だということは、始まったときから既に自覚していた。
それでも、いつかは答えが出るだろうと淡い期待を抱きながら、手を伸ばし続けた。
妖怪は何も咎めず、何も肯定せず、ただその手を取って笑っていた。
弓のようにしなる唇は、優しさなど微塵も見せはしないのに。
ぽっかりと丸い月の浮かんだ夜。
力なく座りこんで、遠くの月をぼんやりと眺めた。
部屋に充満した甘い果実の香りと、足元に叩きつけられて潰れた残骸と、場にそぐわないとぼけた笑い声を垂れ流し続けるテレビが、全て疎ましいと思った。
柔らかい果肉は衝撃で大半が潰れ、空気に晒された果肉は徐々に濁った色に変わり始めていた。
「・・・なんだよ」
ポツリと、声がこぼれた。
妖怪はあのまま、夜の闇に消えてしまった。
畳の上には予想したより大量の血痕が残されていた。
人間によく似た血の色だが、違う。
アレは人ではない。
だから、この血の色も、似ているだけで違う。
大量の桃が発する甘い匂いが、肺を満たしていく。
息苦しさを覚えて、少年はふらふらと立ち上がった。
廊下に出ると、窓ガラスに写った自分と目が合った。
いつもより幼いその表情は、泣き出す寸前の子供の顔をしていた。
頭を抱え込んで、息を殺す。
立っているのが辛くなり、ガラス戸にもたれかかったまま、ずるずると崩れ落ちた。
冷えた空気が、足先から這い上がってくる。
妖怪の、意図が読めない。
何を期待して、あの桃を摘んできたのか、解からない。
自分たちが違うことなど、妖怪の方がよっぽど、理解していたはずだろう。
「なんなんだよ・・・・」
自分の体を抱くようにして硬く目を閉じた。
どうしても、泣きたく無かった。
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