前
空気を裂く音、何かが衝突する音、鼻を突く、焦げたような匂い。
闇の中、土くれの変化と対峙する男の姿を、空に浮かんで文字通り高みの見物をを決め込んでいた妖怪は、退屈そうに鋭い目を細めた。
何を目的にあの男が、あんな効率の悪い攻撃を好むのか、理解が出来ない。
戯れに訊いたら、格好いいじゃん、などと返された気がする。
阿呆は、いつまで経っても阿呆か。
胸の前で腕を組んで、空中に浮かびながら、とらは太い首をコキコキと捻る。
その動作にあわせて、長い金色の鬣がキラキラと輝いた。
うしおの仲間である女が使役する『式神』の白梟が、目のない顔をこちらに向けるのが、視界の端に見えた。
「退屈でしょうがねぇ」
鋭い牙を剥いて、妖怪は低い声を出した。
危険を察知して、団地の屋上に泊まっていた梟が、夜空に舞い上がった。
とらはおもむろに、片手の人差し指を、上から下に、落とす。
――――ドンッ
暗闇を割いて、閃光が走る。
それは雷の形を取り、うしおの足元に群がる土くれの妖怪を、辺りの廃屋もろとも、一瞬で灰にした。
同時に立ち昇る、人工的な不快な匂いに、鼻先に皺が寄る。
落雷の衝撃で起こった土煙の中、無数の円盤を飛ばし、次々地面から生まれてくる黒い影をなぎ払っていたうしおは、ついに痺れを切らしたように、こちらを振り仰いで叫んだ。
「とらぁ!キリがねぇ!!一気にカタァつけるぞ!!」
まるで、協力するのが当たり前のような言い草に、ついさっき雷を呼んで手助けしてしまったことを、激しく後悔した。
ち、と舌を打つ。
悔しさも手伝って、その言葉を当たり前のように聞き流し、腕を組んだまましばらく傍観していると、うしおはコートの背に仕込んでいた別の武器を抜き放った。
銀色に鈍く光るそれは、うしおが籍を置く光覇明宗の坊主どもが揃って所持する、特別な鉄で鍛えられた錫杖だ。
しかし、うしおのそれは、他の坊主の持つものと、少し形状が違う。
うしおが腕を振れば、しゃくん、と涼しい音を立てて、短く畳まれていた錫杖が伸びる。
その先には、本来あるはずの輪形も、そこに通されているはずの遊環もない。
在るのは、鋭く鍛えられた大降りの刃のみである。
にぃ、ととらの口角が上がる。
うしおのためだけに作られた、『槍』を模した錫杖が、うしおの法力を含んで、鈍く光っている。
それを握り締め、影に踊りかかるうしおの目の色は、とらの気分を高揚させた。
――――まるで、獣だ。
やはりアレの手の中には、槍が似合う。
以前は忌々しくて仕方がなかった姿も、一度終えて改めて見てみれば、案外悪くないものだ。
ふわりと金色の鬣が、風に流れる。
急降下したとらは、地面を蹴り上げたうしおの細い腰を捕まえて、一気に空へ上った。
土くれの変化は、誘われるままに、二人の後を付いてくる。
うしおは、とらの腕の中で素早く体制を整えると、槍を振り上げる。
ギャリンッ
体重もろとも振り下ろした槍が、変化の頭を砕く。
その反動で、ふわりと宙に飛び上がるうしおのコートが、月明かりを遮って、大きな影を作った。
次々襲い掛かる黒い影を、いっさい無駄のない動きでなぎ払いながら、上手く反動を利用して、うしおが空中で身を翻す。
まるで自ら空を飛んでいるようだ。
くく、と知らずの内に笑んでいたとらは、影に体当たりを食らわされ、地面に落ちていくうしおを追った。
しかし、受け止めるのではなく、うしおを追い越し、地面すれすれのところで、上へ向かって右手を伸ばす。
大きなとらの手を蹴りつけ、再びうしおが宙に舞う。
とらは風を呼び、逃げ出そうとする何体かを、渦の中に引き寄せた。
轟々とうなる竜巻がすぐに辺りを飲み込み、その中心で、うしおが大きく刃を振り上げた。
「とらぁ!!」
うしおからの合図を受け、ぱちり、ととらの眉間に、小さな光が爆ぜる。
掌を月に掲げ、とらはうしおの槍に狙いを定めると、最大出力の稲妻を放った。
轟音が、闇を切り裂く。
――――さぁ、もっと舞って見せろ。
美しい獣は、鋭い牙を剥いて、笑った。
*
カツン、と革靴のかかとが、コンクリートの瓦礫の上で、乾いた音を立てた。
あちこちに突き刺さっている千宝輪を一つ一つ回収しながら、うしおはちらりと上を見た。
月明かりを背に、金色の妖怪が浮かんでいる。
「とらぁ、そこに刺さってんの取ってくれー」
とらの浮かんでいる近くの壁に、深々と突き刺さった千宝輪を指して、うしおが言えば、とらはフンと鼻を鳴らしてこちらを睨みつけてくる。
「誰に指図してんだ、クソガキが」
吐き捨てる声には、隠そうともしない不快感が、ありありとにじんでいる。
うしおはうんざりとため息をついて、コートのポケットを探った。
ポケットに忍ばせるために、通常よりも小さく改良されている千宝輪の中から、お目当ての箱を探り当てて、うしおは一本、口に咥える。
ライターで火を灯したと同時に、唇に挟んでいた煙草が、弾き飛ばされた。
「・・・・おい、」
足元に転がり、細い煙を上げている煙草に一瞬視線を向けて、それを弾き飛ばした金色の獣を睨みつける。
とらはまたフン、と鼻を鳴らし、ご丁寧に足元の煙草を、雷でもって灰にした。
「今日日煙草の一本も馬鹿になんねーんだぞ、勿体ねーことすんなよな!」
声を荒げながら、うしおが箱を叩いてもう一本取り出そうとする。しかしそれを、とらが許すはずもない。
うしおの手から箱ごと奪い取り、大きな手で握りつぶす。
クシャリ、と音のした箱は、とらの手が逆さに返されたの同時に、紙くずとなってコンクリートの床に落とされた。
見事にぺしゃんこにされたそれを、うしおは呆然として見つめた。
何ゆえここまで、この妖怪は煙草を嫌悪するのか。
愛煙者であるうしおには、到底理解できないとらの理不尽な行動に、涙が出た。
光覇明宗の任務は、基本、無償だ。
だから、うしおの今の生活を支えるのは、サラリーマンとして得た給与のみである。
それなりに名の知れた会社に籍を置くうしおであるが、社会人として働き出して、まだまだ日が浅い。
当然、部屋の家賃・光熱費・食費で、毎月の給料のほとんどは消える。
そんなカツカツな生活の中、ようやく捻出できるわずかな金銭で得た嗜好品を、今、目の前で駄目にされてしまったのだ。
あっさり。しかも昨日買ったばかりの、ほとんど新品だったそれを。
「――――て、め・・・・ッ」
恨みがましく涙を溜めた目で、睨みつけたとらの顔は、予想していたよりもずっと近くにあった。
あ、と思うより早く、大きな口に口を塞がれる。
這いずり込んで来た舌の感触に、うしおの全身が戦慄いた。
咄嗟に両腕でとらの胸を突き飛ばすが、大きな手に腰を抱え込まれて、逆に引き寄せられる。
反対の手は、うしおのうなじに滑り込み、逃げ出せないようにしっかり頭を固定していた。
大きな舌が、口の中を我が物顔で蹂躙していく。
歯列をなぞっていた舌先が、うしおの舌を絡め取り、鋭い牙が甘く噛む。
ぞくぞくと背筋を駆け抜けていく快感に、抵抗すら出来ないまま、苦しさも手伝って、うしおの鼻から、かすれたな息が漏れた。
「・・・ん、ぅ・・・」
無意識に両手でとらの鬣を撫でていた。
さらさらと滑り落ちていく感触に、うっとりする。
とらの顔が離れていく。糸を引いた唾液が、月の明かりにてらてらと光って、卑猥だった。
恍惚としたまま、また強請るように金色の頬に手を這わせると、とらの長い舌が、うしおの指をなめた。
そして、口を耳に寄せ、ことさら甘い声でうしおの名前を呼ぶ。
「なぁ、うしお?」
それだけで、うしおの身体は熱を帯び、腰から力が抜けてしまう。
大きな手に支えられたまま、とらにすがりつくうしおは、とろんとした目で金色の美しい獣を見上げた。
「あんなモン、もう止めちまえよ。還ってきてやったんだ、・・・もう寂しくねぇだろ?」
囁くような声に、神経が犯されていく。
うしおは真っ赤になりながら、数秒の間を置いて妖怪の言葉の意味を理解すると、眉間に皺を刻んだ。
それでも、大きな両目は甘く潤んだままだ。
「―――――ば、っかやろ・・・」
とらを失った後の十年を、知らず思い返しながら、うしおは苦々しく吐き捨てた。
言葉に言い尽くせない喪失感に身を凍えさせながら、それを埋めるために、必死になって生きた。
学業も仕事も、法力僧としての修行にしたって、そうだ。
悔やむ心を、必死に見ないように、がむしゃらに生きた。
とらとともに過ごした、ほんの数えるほどの年月は、うしおにとってかけがえのないものだった。
だから、それを悔いたり悲しんだりするのだけは、嫌だった。
悲しくなどないと言い張り、涙を堪えて、笑った。
本当は、ずっとずっと、寂しかった。悲しくて、悔しくて。
その手が、温もりが、すぐ傍にないことが、たまらなかった。
「ん?」
甘い声で、とらが答えを促す。
煙草なんて、すぐにだって止められる。
それでも、うしおはぎゅっと唇を噛んだまま、首を縦には振らなかった。
とらの言いなりになるのが、悔しい。とらにあっさり見透かされた十年が、悔しい。
その時、スーツのポケット中で、携帯電話が振動を始めた。
はっとして、スラックスの後ろポケットから最近買い換えたばかりのスマートフォンを取り出して、画面に触れる。
「―――――無事か、蒼月」
いつもは沈着冷静な日輪が、どこか慌てたような声で、そう呼ばわった。
うしおは首をかしげ、次の日輪の言葉に、凍りつく。
「私の『式神』の目を通して、そちらの様子を窺っていたのだが、」
忘れてた。
ここへうしおを案内した日輪の『式神』である白梟には、目は付いていないが、直接、術者にその場の映像を送れるようになっている。
確か今は、別の任務で福岡にいると告げていた日輪には、本日この場で起きた、一部始終が伝わっていたのだ。
つまり、先ほどの妖怪とのアレやコレも。
一瞬のうちにそこまで考え、青ざめた顔から、嫌な汗が噴出してくる。
だが、
「突然視界が消えた。何かあったのか?」
「・・・は?」
間抜けな声を出して振り向けば、瓦礫と化したコンクリートの上に、炎で焼き切られた呪符が落ちている。
そこに描かれているのは、間違いなく、白梟の顔にあった、日輪の術式である。
手際の良い妖怪に呆れつつも、ほっと胸中で息を付くと、うしおは日輪に、なんでもない、とだけ告げた。
その言葉を受けた日輪は、特にそれ以上の説明を求めることもなく、被害状況を伝えるように、とだけ言って通話を切った。
通話の切れた画面を確認して、それをポケットに仕舞いこみながら、微かな期待を込めて振り返る。
そこで、うしおはがっくりと項垂れた。
「なーんで戻ってんだよーお前はよー!」
視線の先には、現代社会に適用すべく縮んだ金色の妖怪が、それはもう可愛らしい様子で、丸々した頭を不思議そうに倒して見せた。
――――あぁ、煙草が欲しい。
項垂れたまま、被害状況を記録すべく携帯をカメラモードに切り替え、男はそんなことを思った。
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