徐々に迫りくる夕闇の中に、祭囃子が響いている。
祭り会場にもなっている神社の長い階段を上りきって、そこに腰掛けた井上真由子は、眼下に見える提灯の明かりを眺めた。
近所の神社で毎年開かれる、夏の終わりの奉納際。
学校の友達に誘いをかけたが、高校生ともなると祭りは『カレシ』と行くべきものなのだという。
幼いころからの付き合いのある中村麻子は、実家の中華料理屋で出している露店の手伝いで忙しい。
だから、友人たちの言うところの『花の女子高生』であるにもかかわらず、特定の相手の居ない真由子は、せっかく楽しいはずのお祭りで、一人、あぶれてしまった。
「あーぁ、キリオ君はお仕事だし、つまんないのー」
抱えた膝の上に頬杖をついて、唇を尖らせて見る。にぎやかな祭り会場と殆ど離れていないのに、階段の上にある神社には人の気配はなく、しん、と静まり返っていた。
さっき、麻子の店から買ってきた焼きそばのパックをビニール袋から取り出して、割り箸を割る。青海苔とソースの香りが腹を鳴かせた。
別に一人きりでも、祭りは楽しい。はずだ。これを食べたら下に降りて、わた飴を買って、金魚すくいをして、ああそうだ。かき氷も食べなくちゃ。
せっかくの祭りの日に、しょぼくれていてはつまらない。
「でも、」
いつからだろう。
橙色の提灯の光、にぎやかお囃子も、笑い声も。遠くに思えるようになったのは。
否、自分は確かにあの中に居るはずだ。普通の人として、何の変哲もない女子高生として、あの世界に生きているはずだ。
「でも、」
どうしても感じてしまう、見えない膜がある。それはきっと、『彼ら』と過ごしたあの時間があったからだ。
真由子は知っている。普通の人が『知らない世界』を知っている。
真由子は知っている。それはとても恐ろしいことを。踏み込んではならない場所だということを。
まだ中学生だったころ、真由子はその境界に立たされたことがある。
人を憎む妖と、人との共存を望む妖と、少年たちの戦い。真由子もまた、その戦火に身をなげうった。
きっと、あのころから。
真由子は今も『境界』の上から動けないままでいる。
境界
祭囃子が遠のいた、と感じた。光が揺れて、めまいのように回る。
膝の上から焼きそばの入ったパックが落下する。だが、それが地面に落ちた音が聞こえない。足元が、腰掛けているはずの地面の感覚が、遠い。
「いけない・・・」
額に手のひらを当て、顔をしかめる。真由子は必死に抗うように、力の入らない唇を動かした。
だめだ、引きずり込まれる。
長く伸びた髪が、頬をくすぐる感触。それすらも、どこか遠い。立ち上がろうともがくが、体が鉛のように重くて、うまく動かせない。
真由子の細い指が、くしゃりと前髪を乱す。髪が引かれ、頭皮に走る小さな痛み。奥歯をかみ締めて、足に力をこめる。
立ち上がらないと。だめだ、逃げないと。
あの日から、完全に戻れないままでいる真由子は、時折こうして『向こう側』に呼ばれることがあった。
一度触れて、染み付いてしまったものは簡単に落とせない。真由子の体には、妖たちとふれあい、馴染んだにおいが、今も消え残っている。
そういう『どっちつかず』を、妖は好むのだ。
祭りに一人で行くと言ったとき、井上家に身を寄せいてる少年、キリオはいい顔をしなかった。彼は、真由子の行けなかった境界のずっと奥に居て、向こう側と、こちら側を正しく分ける仕事をしている。真由子よりずっと、この世界に詳しい。
その彼が、言うのだ。
あなたは、『境界』を超えてはならない。と。
真由子は知っている。境界の向こう側を。今も、その境界の向こうで戦う人たちを。
くらくらと頭が揺れる。呼吸が徐々に細くなり、指先は凍えるようだった。祭囃子が、消えてゆく。
どうして、と真由子は思った。
どうして自分はそこへ行ってはならないのか、理解ができなかった。そうして自分の本心に気がついたのだ。
無意識に、自分は向こう側に焦がれていた。恐ろしいあの世界に。けれど、やさしかった『彼ら』の世界に。
「とらちゃん、」
どうして、私はそこへは行けないの。
体が引きずられるような感覚の中、誰かが、名前を呼んだような気がした。
墨色に塗られた夜空に、ぽっかりと浮かぶ金色の月。古くから、月の光は不吉なものと例えられてきた。その冷たくも艶やかな美しさで以って人の心をたぶらかし、狂わせるのだと。
月は、『彼』に似ている。
いつの間にか地面に倒れこんでいた真由子は、ぼんやりと木々の狭間から覗く月を見上げていた。洋服が汚れる、という意識もなく、冷たい土の感触に背中を預けたまま、言葉もなく空を眺めていた。
水中に放られたように、音も感覚も遠い。人気もない森の中、照らすのは月明かりばかり。当然あるはずの恐怖心は、ひとつも沸いてこず、自分は人としての感情を、どこかに忘れてきてしまったのかもしれない。
真由子はあのころから、何かを見て恐怖する、ということが殆どなくなっていた。テレビや映画を見て、騒ぐ友人たちに合わせて叫んでは見るものの、それが恐ろしいとは少しも思わない。
体に、大きな穴が開いている。
体中に張られた膜が、周囲と自分を切り離す。
私はここに居ない。
それなのに、その先に行ってはならないと言う。
「とらちゃん」
じゃあ私は、どうしたらいいんだろう。
仰向けに寝転んだままの目じりから、生暖かい涙があふれて落ちた。
このままここに居てはいけない。自分は呼ばれてしまったのだ。逃げなければいけない。このままここに居たら、きっと、殺されてしまう。
真由子のような人間を、妖は餌として好む。何も知らない人間より、多少においのついた者の方が美味いのだろう。
そこまで考えて、真由子は唇をゆがめた。
そういえば、同じような台詞をどこかで聞いたことがある。お前は自分の餌だと、デザートだと、鋭い歯をむき出して笑った金色の獣。この月に、よく似た妖。
あのとき彼が言った台詞の、その意味のほんの少しを理解できたような気になって、真由子はおかしくなった。
「とらちゃん、私ね」
本当はもう、帰りたくないって思ってる。
ほろほろと涙が溢れ出してゆく。自分を取り巻く環境が疎ましいわけでも、家族が嫌いなわけでもない。真由子は事実、あの世界を愛しているし、幸せだと理解している。けれど、違うのだ。あそこに居る自分は、違うのだ。
私は、どこにも居ない。
どこにも居場所なんてないのに、その先を、探しに行くことすらできない。
「だからニンゲンは嫌ェなんだよ」
胸糞わりぃ。と低い声が言う。目を見開いて、真由子は飛び起きた。
鬱蒼と茂る木々の狭間に、月明かりが落ちる。それより一層輝く金色が、そこに居た。
「・・・・・っ、とら、ちゃん・・・・!?」
大きな目を丸くして、そこにへたり込んだままの真由子が言えば、視線の先の妖怪はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「うだうだと意味のねェことばっかほざきやがって」
「・・・・意味、ないかなぁ?」
困ったように真由を落として問う真由子に、ぎろりと鋭い視線が向けられる。妖怪は呆れたようにため息をついただけで、特に返事をよこさなかった。本当に、どうでもいいと思っているらしい。
「今日ね、私お祭りに来てたはずなんだけど、・・・・焼きそばどこに落としちゃったんだろう」
立ち上がり、服についた土を払う。真由子ののんびりした口調に、妖怪はまたつまらなそうな顔をすると、体を起こしてこちらに近づいてきた。大きな体を獣のように四つんばいにして歩く姿は、あのころと同じだ。
無言で促されるままに、真由子は歩き始めた。半歩遅れて、妖怪がついてくる。
森の中に流れる空気は湿っていて冷たくて、夏の装いには少々肌寒い。細い腕を抱くようにして、真由子はひとつ身震いした。
「弱っちィなぁ、この程度でビョーキになるのかよ、ニンゲンは」
「このくらい大丈夫だよ。ちょっと寒かっただけ。歩けば暖かくなるしね」
隣を行く妖怪の言葉に、片目をつむって返す真由子。妖怪は鼻の頭にしわを寄せて、ちっ、とひとつ舌打ちをよこした。
金色に輝く鬣が、風の流れに逆らって蠢く。それは妖怪の意思に従って真由子の体を包むと、ふんわりとした布を形成した後、ぷつりと鬣から切り離された。
真由子は、これと同じものを昔に見たことがある。あのときも確か、この妖怪と二人、こんな薄暗いところに閉じ込められたのではなかっただろうか。
「ありがとう、とらちゃん」
肩にかけられたそれを引き寄せて、真由子は笑った。妖怪はまた舌打ちをして、そっぽを向いてしまう。
あのとき、自分は必死だった。怖くて恐ろしくて、本当は逃げ出してしまいたかった。それでも、この妖怪が居てくれたから、最後まで戦えた。情けなくても、格好悪くても、自分の信じる正義を貫くことができた。
「何がおかしい」
唇に浮かんだ笑みが、消えない。笑う真由子に、妖怪は怪訝な目を向けてくる。
「だって今・・・。私、ぜんぜん怖くないんだもん。とらちゃんが居てくれるからかなぁ」
そんなことを言って笑う真由子の隣で、妖怪はふと、声の調子を変えた。今までもずっと不機嫌そうだったが、それ以上に、低く冷たい声で、言う。
「何言ってやがる。わしが現れる前から、お前は何も怖がっちゃ居なかったろう」
「・・・とらちゃん?あれ、私何か、怒らせるようなこと、言っちゃった?」
足を止めた妖怪に、真由子も立ち止まる。振り返って妖怪の顔を覗き込む真由子に、妖怪はさらに冷たい声ではき捨てた。
「お前、もう諦めてやがるだろう」
妖怪の言葉に、背筋が凍った。表情を失って立ち尽くす真由子に、妖怪はつまらないものを見るような目を向けてくる。
体の裏側を、えぐられたようだった。妖怪の言葉が、あまりにも図星だったからだ。
これでも真由子は、本心から今の生活に満足していた。無理に笑っていたわけではない。無理に周囲にあわせてきたわけではない。何気ない毎日に、本当に素直に、幸せをかみ締めていた。
けれど。
それはすべて、諦めの上に成り立っていたものだった。
「・・・そんなこと、ない」
「なら、なぜ泣く」
「それは、とらちゃんが、怒るから」
「わしが?・・・・誰がこんなつまらん事で腹なんぞ立てるかよ」
「だって、」
だって、私は。これが現実だと、受け入れるしかなかった。自分にそう、言い聞かせるしかなかった。
けれど本心は。消えきらない願望は、いつまでも腹の底で熱を持っていて。
本当は。
「―――本当は、とらちゃんと一緒に行きたかったよ!」
それでも叶わなかったから。この場所から動くことすら許されなかったから。
もう無理なんだ、と、諦める他なかった。
悲鳴のような声が出た。ぼろぼろと涙が溢れ出していく。真由子はそれをぬぐうことも忘れて、目の前の妖怪をにらんだ。
強く強く、突き刺すように、にらみつけた。
「私を食べてくれるって言ったのに!絶対食べてくれるって言ったのに!どうして約束破ったの!?」
妖怪の言葉が何を意味しているかを、理解していなかったわけではない。食べる、という言葉は、何かの比喩なわけではない。妖怪がその約束を実行するということ、それはすなわち、真由子の死を意味する。
死にたかったわけでも、殺されることに恐怖を感じないわけでもない。
でも。
「どうして私を追いて行っちゃったの!?」
一人にされるより、ずっとずっと、マシだ。
泣き喚く真由子を前に、妖怪は何も言わなかった。ただ、静かにそこにたたずんで、じっとこちらを見上げている。
真由子が妖怪の肩にすがり付いても、その胸に拳をぶつけても、彼は何も言わなかった。
言葉もなくそこにたたずんで、静かに真由子を見ていた。
真由子の頬から落ちた涙が、湿った土に落ちる。ゆっくりと、ゆっくりと、冷えていたはず空気は温度を変えていった。
「・・・・ここまでだ」
じっと黙り込んでいた妖怪が、不意に口を開く。その言葉に、真由子はようやく我に帰った。
ハッとして、顔を跳ね上げる。地面に滴り落ちた真由子の涙を吸って、黒い土が笑う。木々は狂ったように枝をしならせて、彼女のまとわりつかせる甘い匂いに歓喜した。
甘く、獣の世界に穢れたにおいを放つ真由子は、妖怪たちにとっては極上の餌だ。
「とらちゃん、」
ようやく訪れた悪寒に身を震わせながら、真由子が妖怪を見上げる。妖怪はついと視線を上げ、言った。
「ここからは、お前一人で行け」
どこかで予想していたとおりの台詞に、身が凍る。一度止まりかけた涙が、再びあふれていった。
「とらちゃん」
「心配いらねェ、一本道だ。走れ」
すがるように名前を呼ぶ真由子にも、妖怪は視線すらよこさない。真由子は金色の鬣につかみかかり、子供のように首を振り回した。
「とらちゃん、いやだよ!」
「真由子!」
妖怪が、吼える。
空の背後に迫る木々が、一層の暗さを増して迫ってきている。今、少しでも気を抜けば、この均衡は崩れ去ってしまうだろう。
静かだったこの森を眠らせていたのは、妖怪の力か、それとも、真由子の都合のいい夢か。
その夢も、儚く覚めようとしている。穏やかでも幸せでもない、ただの冷たい夢が。
それでも、真由子には優しい夢だった。たとえ目の前のこの金色の影が、幻想だったとしても。
「ねぇ、とらちゃん・・・・、あなたは、本物?」
ふらりと立ち上がる真由子が尋ねれば、やっと妖怪の顔がこちらを向いた。妖怪は少しだけ目を細めて、首をかしげた。
何だかやけに柔らかい声で、妖怪は質問を返してくる。
「どちらだとおもう?」
別に。どっちだって構わない。
涙が頬を伝い落ちていく。それを眺めていた妖怪の目は、優しかった。
「走れ。絶対に振り向くな」
妖怪の手のひらが、真由子の背を押す。力の入らない足を無理やりに動かして、真由子は走り出した。
見えなくなった向こう側で、恐ろしい何かが喚いている。逃げ出す真由子を捕らえようと、熱を孕んだ空気が追いすがってくる。声にならないうめき声。蠢く者たち。本当は、知ってはいけない『向こう側』。
「大丈夫。おめぇなら、やっていけるさ」
最後に、耳たぶを揺らした妖怪のささやき声。
真由子は走った。振り返らず、ひたすら前だけを見て、必死に走った。涙で視界がぼやけても、何度足がもつれて転びそうになっても、真由子は走り続けた。
大丈夫。一本道だ。
大丈夫。このまま行けば、戻れる。
「とらちゃん、」
大丈夫。私はもう、振り向いたりしない。
ごう、と吹き付ける風に乗って、にぎやかな祭囃子が聞こえた。
「真由子おねえちゃん!」
聞きなれた声が聞こえて、振り返る。月明かりの下、大きな釜を携えた少年がこちらに走ってくるのが見えた。
月の明かりを強く反射する刃先には、払いきれなかった血が付着している。しかしそれも、黒い煙となって空に立ち消えていく。
あれはきっと、向こう側のものだ。こちら側では長く姿を保っていられない。
「大丈夫!?怪我は・・・?」
神社の境内にへたり込んでいた真由子は、キリオの声に、ゆっくりと瞬きを繰り返す。肩にかかった暖かな布の感触に、また涙があふれそうになったが、耐えた。
「大丈夫、ありがとう。キリオ君が助けてくれたんだね」
ゆっくりと真由子が笑みを浮かべる。キリオは少し戸惑ったように眉を寄せたが、結局何も言わなかった。
遠くに、祭囃子が聞こえる。橙色の提灯が、まだ完全に夏の気配を消しきらない風に揺れている。
キリオが差し出す手のひらにつかまって、立ち上がる。
眼下に広がる町の明かりは、懐かしく、どこまでも暖かだった。
大丈夫。
おめぇなら、やっていけるさ。
優しい声が耳たぶを揺らして胸を切なくさせるのを、真由子は誰にも悟られぬよう、心の奥に閉じ込めた。
先に行くキリオの背を追いかけて、真由子は階段を下りはじめた。足を進めるたびに、少しずつ境界が遠ざかっていく。
ただ前だけを向くために、遠くの光に目を凝らしながら、真由子は向こう側に残した彼に、ひとつだけ、誓いを立てた。
大丈夫。
私はもう、振り向かない。
月の輝く夜空に、祭囃子が響いている。
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