ただの夢だと、思ってた。
うつせみ
出口の見えない薄暗い廊下を、ひたすら歩いていた。
足は鉛のように重く、もつれ、呼吸はどんどん苦しくなっていく。
ひたり、と近づいてくる足音が、また大きくなった。
汗をぬぐう掌が、震えている。
少年は耐え切れずに振り向いた。
薄暗い廊下の、もっと暗いその先に、真っ黒な影が立っている。
細い肩細い足、長い黒髪。
ゆっくりと顔を上げるそれと、視線が交わりあう。
―――――なぁ、置いていくな、よ――――
自分と同じ顔をしたそれが、恨めしそうな声を出した。
「・・・・・・ッ!!」
言葉にならない悲鳴を上げて、飛び起きた。
全身が汗で湿っている。
子供は短い髪をかき回すようにして頭を抱え、身を身を縮めた。
繰り返し見る夢が、どんどん鮮明になってきている。
長い廊下をひたすら逃げる自分、それを追いかける、違う姿の、もう一人の自分。
ぎゅっと目を瞑って呼吸を整える。
開けたままの窓から夜風が吹き込み、汗ばんだ皮膚を冷やしてゆく。
揺れたカーテンの隙間から入り込んだ月明かりが、部屋の片隅の布にくるまれた槍を、薄ぼんやりと照らしていた。
悪夢を見るようになったのは、一ヶ月ほど前のことだ。
そのとき感じたほんの少しの違和感が、徐々に明確なものになってきている。
少年は気付かない振りを続けたが、どうやらそれも限界だったようだ。
「・・・何だオメー、最近おかしいぞ?」
長く伸びた黒い毛が、全身から吹き出した血を含んで張り付いてくる。
ゆっくりと身を起こしながら、不機嫌そうな声を出した魔物を見上げた。
金色の魔物は、背後からの月明かりを全身に浴びて、それはもう美しくきらきらと輝いている。
頬に流れ落ちてきた血液を手の甲で拭い取り、少年は消え入るような声で、そうでもねぇよ、とだけ返した。
「ったく、わしに断りもなくばっちくなりやがって・・・・」
少年の顔を覗き込むようにして、妖怪が鼻にしわを寄せる。
大きな手が、乱暴の少年の頭を掴んだ。
「おい、何で血が止まらねぇ?」
鬱蒼とした森の中、人に忘れ去られた廃墟に、妖怪の低い声が響く。
壁に叩きつけられた時に割れた頭からは、いまだおびただしい量の血が溢れている。
妖怪の長い舌が、べろりと頬を舐めた。
いつもなら思いっきりはたいてやるところだが、今日ばかりはその気力も湧かない。
流れてゆく血に比例して、体温と力が、急激に奪われていくのが解かる。
確か、妖怪の唾液には高い治癒能力があるのだ。
以前、自慢げにこの妖怪が語っていたのを覚えている。
「・・・おい、寝るなよ?死ぬぞ」
血を舐め取りながら、妖怪がこちらを睨む。
少年は思わず笑ってしまった。
「・・・なんだよ、俺を喰うんじゃなかったのかよ・・・」
感覚の遠のいた意識の中で、かすれる声を出した。
妖怪は不機嫌の極み、と言った表情を作り上げ、ぐいと顔を近づけてきた。
「阿呆が!人間は生きたまま喰うのがうめぇのよ!こんな死にかけなんざ、喰う気も起きねぇっつうんだよ!」
妖怪のいつもの台詞に、頬が緩むのが解かった。
遠くの音と光の中、一番近いはずの妖怪の感触は、少年が意識を手放すのと同時に、あけなく消えた。
一ヶ月ほど前のある日、いつものように妖怪の喧嘩に巻き込まれ、槍を手にしたときのこと。
違和感は、それから徐々に濃くなっていった。
目を覚ますと、見慣れた自分の部屋に居た。
妖怪が運んできてくれたのだろう。
あの妖怪は、自分が弱っているときに限って、何となく優しいことをするから、始末が悪い。
ほとんど力の入らない腕に、無理を言って身体を起こす。
予想していたよりもずっと近くに、槍が投げ捨てられているのが目に入った。
退治した妖怪の血は、もう塵となって消えてしまったようだ。
傷だらけの古めかしい槍が、月の明かりを反射して、薄く輝いている。
「・・・なぁ、もうお前、オレのこと要らなくなったのか?」
かすれた声が、ポツリと落ちた。
解かってはいたが、返答はない。
馬鹿らしくなって、ため息をつくと、ふすまの向こうの気配に気付いた。
じっと静かにこちらの様子を伺っている。
もう、恐怖すら薄らいでしまった。
ゆっくりとふすまに目をやると、微か、隙間の向こうに何かが見えた。
細く開いたそこから、じっと見つめるそれは、目だ。
自分の、目だ。
「・・・何見てんだよ、これが欲しいのか?」
語りかけても、返事はない。
いつものことだ。
じっと、薄暗い場所からこちらを見てる。
細い肩細い腕、長い黒髪。
「消えろ」
消えてしまえ。
頭の中で、何かがはぜた。
唐突な感情に流されるまま、その辺に落ちていた枕を、力任せに投げつけた。
静まり返った室内に、初めて大きな音が響く。
枕は、誰にぶつかることもなく、むなしく床に落ちた。
槍が重いと感じたのは、あのときが初めてだった。
ずしりとした石のような重みに気を取られ、一瞬反応が遅れた。
後頭部をしたたか打ち付けられ、歪んだ視界の中、歪んだのは、視界だけではないと、思った。
ずれた。
自分と、アレが。
ごうごうと風が吹き抜けていく。
傷が残ったままの腕が、いい加減悲鳴を上げていた。
長く伸びた黒い毛は、容赦なく視界をふさいでは、動きを邪魔する。
槍は重いまま、身体は思うように走らない。
近くに居たはずの気配が、霧のように消えた。
目を見開いて辺りを窺うも、妖怪の姿を捉えることは出来なかった。
「―――クソッ」
言うことを聞かない身体に苛立って、思わず声が出た。
それと同時に、ふっと光が消えた。
とっさに振り向くが、間に合わない。
鋭い爪が、細い身体をえぐった。
そのままの勢いで、吹き飛ばされる。
景色が次々と入れ替わり、削り取られていく皮膚の痛みが、熱を帯びる。
しかし、覚悟していた衝撃は、いくら待っても襲ってこなかった。
背に回された微かな体温に、ぞくりとした。
無意識に、槍にしがみついていた。
「・・・・嫌だ、」
嫌だ、振り向きたくない。
がさがさと音を立てて、妖怪が物凄い速度で近づいてくる。
早く何らかの対処を考えなくては、今度こそやられてしまう。
それなのに恐怖に凍った意識は、目の前に迫る妖怪ではなく、背後の気配に釘付けになっていた。
――――――もう、
後ろから、声がする。
長い毛が、肩を滑り落ちていく。
槍が、重い。
重い。
―――――手を離しても、いいよ―――――
「嫌だぁああああああああああッ」
少年の悲鳴と同時に、轟音が鳴り響いた。
妖怪の突っ込んだ衝撃に、土煙を上げて、木がなぎ倒されていく。
しかし音は、一瞬で途切れた。
風の止んだ薄暗い森の奥。
ゆっくりと頭をもたげた小さな影が、ふたつ。
それが、完全な分裂だった。
うつせみ1/2/3/4
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