はじめは言葉が、奪われた。
うつせみ
長い黒髪をなびかせて、線の細い少年が、背後の金色の魔物に何かを叫んだ。
金色の魔物は少年の言葉にいったん不満を漏らしたが、すぐに少年の後を追って地を蹴った。
高い空に、舞い上がる。
綺麗な金色の毛と、それに混ざる、いっさい曲のない、黒い髪。
自分ではない、黒い髪。
――――待て!置いていくな!
がむしゃらに叫んだが、やはり声は出なかった。
その場所は、オレのものだったのに。
音のない部屋の中に、独りぽつんと座り込んで、少年はじっと息を殺していた。
槍が思うように振るえなくなって、身体が言うことを利かなくなって、傷ばかりが増えた。
傷は癒えることもなく皮膚を汚したままだったし、無理を強い続けた身体は、事実、限界だった。
こうならなければ、遅かれ早かれ、自分は死んでいただろう。
金色の妖怪は、はじめこそこの状況に驚きはしたが、自分などよりずっと早く全てを理解した。
一人で残されることに、抵抗を覚えるのは、ただの嫉妬なのか、それとも、恐怖なのか。
少年は細い肩を抱えるようにして、ぎゅっと目を瞑った。
槍を奪われた。
自分が槍に触れても、何の反応もしなくなった。
髪も伸びなかったし、声もいっさい聞こえなくなった。
妖怪の邪気を察知して、槍が鳴らす警告のようなあの甲高い音でさえ、聞こえなかった。
まるで普通の人間に戻ってしまったのだ。
けれど、正直言ってその状況は悪くなかった。
普通に学校へ行けるようになったし、遅れていた勉強も、何とか取り戻せるようになった。
普通に友人達と遊んで、楽しんで、危険な目に遭うこともなくなった。
しかし、
「・・・・ぅ、ぁ・あ・・・」
いくら必死に口を動かしても、やはり言葉にならない。
数日前からずっと繰り返したせいで、痛めつけられた喉は、焼けるように熱い。
言葉が奪われた。
槍を振るうだけで、表情も言葉も不十分だったアイツが、不意に喋りだした。
とら、と自分と同じ声で、金色の魔物を呼んだ。
「・・・ぅ、う・・・・」
喉が痛い。
なぜか目が熱い。
ぼろぼろと涙がこぼれて、畳に染みて行った。
槍と声を手に入れたアイツは、当たり前のようにあの妖怪の隣に並んで見せた。
悪態を付き合いながら、金色の妖怪と一緒に、妖怪退治だと意気揚々と飛び出して行った。
涙が溢れて止まらなかった。
なぜだかその光景が、悔しくてたまらなかった。
槍を振るえないことが、悔しい訳ではない。
実際自分は解放されたと、あのときそう思って、喜んていたのだ。
それなのに、何が、どうしてこんなに、悲しいのか。
「う、あぁ・・・・ッ!」
叫んでも、無意味な呻き声は、言葉にはならなかった。
喋れなくなって、学校には行かなくなった。
一日中陰鬱な気分のまま部屋に閉じこもり、何だかんだとまとわり付いてくる金色の妖怪の悪態にも、ほとんど反応しなかった。
その内に、妖怪をからかってケラケラと笑うアイツの姿に、愕然とした。
言葉に次に奪われたのは、表情だった。
いくら心で悲しいと思っても、涙はいっさい出てこない。
それどころか、表情が変わることすらない。
動悸ばかりが早くなる。
額に汗を浮かべて睨む少年に、アイツは実に不思議そうな「表情」を浮かべた。
「どうした?うしお、具合わりーのか?」
長い黒髪をだらしなく引きずって、近づいてくる。
急激な恐怖が、腹の中で渦を巻いた。
ぱしん、と乾いた音が響く。
気遣うように伸ばされた腕を払い除けられ、目の前の顔が悲しそうな表情を作る。
―――――やめろ、
必死に、叫んだ。
止めろ、その顔でそんな表情を浮かべるな。
同じ目で、こっちを見るな。
同じ声で、喋るな。
―――お前が、うしおなんて呼ぶな!
力任せに殴りつけた。
無抵抗のまま殴られた細い身体は、簡単に床に倒れこみ、信じられないものを見るような目を、こちらに向けた。
「何だよ、うしお!何で!?」
殴られた頬を押さえ、泣きそうな声を上げるソレが、必死に足にしがみついてきた。
一気に感情が爆発する。
蹴り上げて払い除け、仰向けに転がした身体に馬乗りになった。
拳を何度ぶつけても、相手は悲しそうな悲鳴を上げるだけで、やり返してこなかった。
それどころか、こちらを気遣う言葉すら口にする。
怒りに体中の血が逆流するような感覚に襲われた。
槍だけだなく言葉だけでなく、表情までも、場所までも奪われた。
コイツが憎い。
そのまま我を忘れて殴り続けた。
組み敷かれたままの少年は、必死に自分の名前を呼びながら、子供のように泣き喚いた。
泣いて、許してと請うた。
ただならぬ様子に、金色の魔物が止めに入った頃、顔を真っ赤に晴らしたソイツは、ぐったりと気を失っていた。
表情の次に奪われたのは、良心だった。
さらさらと金色の髪が頬を滑っていく。
目を覚ますと、予想外な位置に、妖怪の顔があった。
驚いて、とっさに飛び起きようとするが、大きな手で押さえつけられ、また布団に沈められる。
「うしお」
耳元で、低い声が呼んだ。
悲しいと思ったが、声も涙も出なかった。
無意識に妖怪の頭を抱え込んで、目を閉じた。
妖怪はそのまま動くこともなくじっとしている。
この妖怪はいつも、自分が弱っているときに限って優しいことをする。
だから余計に辛いのだ。
「・・・・名前が、欲しいんだとよ」
妖怪が不意に話しかけてきた。
腕を解くと、顔を上げた妖怪がこちらを覗き込んでくる。
促す言葉も表情も作れなかったが、妖怪は足りない言葉を補った。
「アイツだ、髪の長い方。うしおはお前だから、自分は別の名前が欲しいんだとよ」
ようやく冷えた頭に、また言い知れない不快感が湧き上がる。
少年は顔を反らし、精一杯の答えを返した。
名前など、くれてやるものか。
これ以上アイツに、何もくれてやるものか。
名前など、必要ない。
誰にも呼ばれなければいい。
――――ただのまがいモノの分際で。
顔を背けたまま、動かないでいると、妖怪はゆっくりと離れていった。
すがるように見上げれば、特に何もない顔で、妖怪は静かにこぼした。
「・・・オメェ、変わったな」
その日、身体にヒビが走ったのを、覚えている。
うつせみ1/2/3/4
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